Mag-log in伝えたい、と思った。いつも私の本音を引き出してしまうあの人に、真っ先に聞いてほしかった。
でも──私はあのお見合いの席に、『西園寺真帆』として座っているだけだ。
彼が向き合っているのは私ではなく、姉の肩書きなのだと、冷たい現実が頭をよぎる。
膨らみかけた気持ちを打ち消すように、スマホを伏せた。
姉に「黒瀬さんの周辺を調べてほしい」と言われたことを、ふと思い出した。
仕事の喜びに浮かれていた頭が、すっと冷える。
調べたくて調べるわけじゃない。でも、知らないままでいることの方が怖かった。
仕事を終えて帰宅し、お風呂上がりの濡れた髪にタオルを巻いたまま、私は再びスマホを手に取った。
深夜の静まり返った自室で、液晶のブルーライトが妙に眩しい。
少しだけ躊躇ってから、スマホの検索窓に「黒瀬グループ」と入力した。
大手ポータルサイトには、きらびやかな企業情報、右肩上がりの沿革、創業者のインタビュー記事など、表向きの華やかな実績がずらりと並ぶ。
<模型の部屋で見た、あの一瞬の陰り。『大丈夫だ』という誰にも向けていないような一言が、それから何日も私の頭の片隅に残り続けていた。仕事をしていても、友人と話していても、ふとした瞬間に、あの横顔が蘇った。柊さんは何も変わらない様子で日々を過ごしていたけれど、その分だけ、余計に気になった。このまま、聞かないフリを続けることもできる。触れずにいれば、今の穏やかな関係は、そのまま続いていくだろう。でも、それでは、いつか本当に大切なことを、伝え合えない関係のままになってしまう気がした。◇夜、柊さんの部屋を訪ねた。「話してください。全部でなくていいから」柊さんが、こちらを見た。何を、とは聞かなかった。何のことか、もう分かっているようだった。長い沈黙が流れた。柊さんは、答えを探しているというより、話すか話さないか、その一線をずっと行き来しているように見えた。窓の外で、夜風が木の葉を揺らす音がした。時計の秒針の音が、いつもより大きく聞こえた。どれくらい、そうしていただろう。柊さんが、指先でグラスの縁をなぞりながら、ようやく口を開いた。「父を、恨んでいるわけじゃない」やがて、柊さんが口を開いた。「ただ──信じられなくなっただけだ」「信じられない、というのは」震える声で、そっと尋ねた。柊さんが、視線を落とした。膝の上で組んだ手に、わずかに力がこもるのが見えた。「大切なものを、簡単に手放す人間を──どう信じればいいのか、わからない」その一言に、これまで見えなかった柊さんの傷の形が、初めてはっきりと見えた気がした。母の最期に立ち会えなかった父。会社を離れることになった、その原因。誠一郎さんが、今も許していないという過去。すべてが、この一言に集約されていた。十七歳という若さで母を失い、父の不在を見せつけられ、それでも人前では弱さを見せなかった。この人の中で、その時に固まってしまった何かが、今もまだ、そのままの形で残っているのか
十一月最初の日曜日。柊さんから連絡がないことを、珍しく感じていた。いつもなら、少なくとも一日一回は、業務連絡でも他愛のない一言でも、何かしらメッセージが届く人だった。心配になって、アポなしで部屋を訪ねてみることにした。エントランスで少し迷ったけれど、こういう時こそ、遠慮せずに行くべきだと自分に言い聞かせた。インターホンを押すと、しばらくして扉が開いた。柊さんは、いつものスーツ姿ではなく、シャツの袖をまくった、部屋着に近い格好だった。「珍しいですね、連絡なしなんて」「悪い。集中していて、気づかなかった」招き入れられた部屋の奥、書斎の一角に、小さな作業台が広げられていた。そこに、精巧な建築模型があった。「これ……」「前に、話しただろう。子どもの頃からの癖が、抜けていないと」大阪への出張の新幹線の中で聞いた、あの話だった。『今度、見せてください』『気が向いたら』──そんなやり取りを、覚えていてくれたのだと分かって、胸が温かくなった。「見てもいいですか」「もう見ているだろう」素っ気ない返しだったけれど、手は止まらなかった。細いピンセットで、小さな窓枠を、慎重に貼り付けている。隣に座って、その手元をじっと見つめた。木の削りかすの香り、カッターの小さな音、集中した横顔。仕事の時とは違う、静かな熱を持った表情だった。「これは、何の建物ですか」「決めていない。ただ、手を動かしていると、何も考えずに済む」あの新幹線の中で聞いた答えと、同じだった。あの時よりも、今の方が、その言葉の意味が少しだけ分かる気がした。しばらく、二人で無言のまま、模型作りを見守った。時折、柊さんが「これを持っていてくれ」と、小さな部材を渡してくる。手伝っているというより、ただ隣にいることを許されている、そんな時間だった。「集中してる時の柊さんって、仕事の時とも、私といる時とも、また違いますね」
コンペのフォローアップで本社を訪れたのは、それから数日後のことだった。打ち合わせを終え、廊下を歩いていると、前方から見覚えのある男性が歩いてきた。先日、エレベーターホールですれ違った、あの人だった。隆之さんが、足を止めた。値踏みするような目で、上から下まで、ゆっくりとこちらを見た。「君が、柊の……」「西園寺柚葉と申します」深く頭を下げると、隆之さんが鼻を鳴らすように小さく息を吐いた。「ふうん」それだけだった。踵を返しかけて、でも一瞬だけ、足が止まった。何かを言いかけたような、迷うような間があった。結局、何も言わずに、隆之さんは去っていった。その一瞬の迷いが、なぜか記憶に残った。冷たいだけの人には見えなかった。むしろ、何かにずっと蓋をしている人のような、そんな気配があった。短いやり取りだったのに、体の芯から冷えるような感覚が残った。歓迎されていない、というより、そもそも人として見られていない、そんな視線だった。それでも、あの一瞬の迷いだけが、少しだけ引っかかっていた。◇その夜。柊さんの部屋で、思い切って伝えた。「今日、お父様にお会いしました」「そうか」短い返事だった。言葉は、そこで途切れた。「お父様のこと、話してくれないんですか」「話すことがない」その言い方が、初めて私との間に、壁を作られたのだと、はっきりと悟った。これまで、どんな話題でも、たとえ答えづらいことでも、柊さんは時間がかかっても、最終的に自分の言葉で向き合ってくれた。けれど、父親のことだけは違った。「柊さん」柊さんは、何も言わなかった。ただ、窓の外に視線を向けたまま、長い沈黙が続いた。これ以上、聞くのはやめた。ただ、心の中に、小さな棘のようなものが残った。この壁を、今すぐに崩す必要はない。でも、いつか崩れる日まで、隣にいようと思っ
【柊side】父が、アポイントもなくオフィスを訪ねてきたのは、柚葉に電話を無視するところを見られた、その二日後のことだった。秘書が慌てて取り次いだ様子から、断ることもできない相手だというのが伝わってきた。応接ではなく、俺の執務室にまで、あっさりと足を踏み入れてくる。この人らしいやり方だった。「お前に相談がある」前置きもなく、そう切り出した。以前と変わらない、こちらの都合を一切考えない話し方だった。「地方のホテル事業、経営が厳しい。少し、支援してもらえないか」淡々と、事情を並べていく父を、俺はただ黙って見ていた。杜撰な采配、見通しの甘い投資。話を聞くほどに、経営難の原因が、外的要因ではなく、父自身の判断にあることが見えてくる。それでも、まるで他人事のような口調で語る父に、既視感に似た苛立ちがあった。もっとも、父が任されているのは、グループの中核とは切り離された、地方の小さな事業にすぎない。それでも、その最後の居場所すら、危うくなっているらしかった。昔から、そうだった。この人は、都合の悪い部分だけを曖昧にして、必要な部分だけを差し出してくる。◇「それと、ちょうどいい話がある」父が、話題を変えるように続けた。「旧知の家の娘さんでね。お前ももう三十四だ。会社のためにも、ちゃんとした家との縁が要る」その言葉に、体の奥が、冷たく強張るのを感じた。『会社のためにも』この言葉を、これまで何度聞かされてきただろう。祖父の代からの取引先との縁談、事業拡大のための政略結婚──『会社のため』という大義名分の裏に、いつも誰かの人生が差し出されてきた。「その話は、必要ない」俺は表情を変えずに、そう返した。父が、わずかに眉をひそめた。「何を意固地になっている。お前の立場を考えろ」「考えている。だから、必要ないと言っている。俺には、大切な人が……」「柚葉さん、といったか。あの子のことは知
十月の第二週、夜。柊さんの部屋で、いつものように穏やかな時間を過ごしていた時だった。テーブルに置かれた柊さんのスマホが、静かに震えた。画面を見た瞬間、柊さんの表情が、わずかに固まった。いつもの柊さんなら、仕事の電話であれ何であれ、迷わず出る。でも、今夜は違った。指がスマホの上で止まり、それから、画面を伏せるようにテーブルに置いた。「……出なくていいんですか」「いい」短い返事だった。それ以上、何も説明しなかった。着信音が鳴り止み、部屋にまた静けさが戻る。でも、さっきまでとは違う静けさだった。柊さんの視線が、一瞬だけ宙をさまよって、また戻ってくる。その一瞬に、私は初めて、柊さんが何かから目を逸らすところを見た気がした。「大丈夫ですか」「ああ」それだけだった。会話は、何事もなかったかのように続いていった。柊さんはいつも通りの調子でグラスに口をつけ、次の話題を口にした。でも、伏せられたままのスマホが、ずっと視界の端に引っかかっていた。◇その後も、時折思い出したように、私はスマホの方に目をやってしまった。柊さんは気づいていたのか、気づいていないふりをしていたのか、それ以上は何も触れなかった。いつもなら、こういう小さな違和感も、話せば教えてくれる人だった。今夜だけは、何かを聞いても返ってこない気がして聞けなかった。その夜。私が部屋を出るまで、着信は二度と鳴らなかった。それが、かえって不自然に思えた。帰り道。電車の窓に映る自分の顔を見ながら、ふと思った。柊さんにも、こんなふうに目を逸らしたくなる何かがあるのだと、今日初めて知った気がする。これまで、いつも私の過去に寄り添い、支えてくれる側にいた人だったから。その立場が、今夜だけ、少し入れ替わったような感覚があった。今度は、私がこの人を支える番なのかもしれない。ただ、まだ何も知らないままでは、支えようにも手の届かせ方が分からなかった。
十月の最初の土曜日、葵から『今日、時間ある?』とメッセージが届いた。いつもの気軽な誘いだと思って、駅前のカフェで待ち合わせた。先に着いていた葵は、いつもより少しだけ、そわそわしているように見えた。「どうしたの、なんか変な感じ」「……実は」葵が、両手でカップを包み込むようにしながら、目を伏せた。「朔さんと、ちゃんと付き合うことになった」一瞬、言葉の意味を飲み込むのに時間がかかった。「え、いつの間に?」「柚葉には、内緒で進めてたの、ごめん。お互い、変に意識されるのも嫌だったから」「全然いいけど……でも、そっか。そうなんだ」驚きと嬉しさが、同時にこみ上げてきた。あの日、コンペ会場の隅で拳を握りしめていた葵と、それを見つけて声をかけた朔さん。あの偶然が、こんな形に育っていたなんて。「朔さんって、見た目より真面目なんだよね」葵が、少し照れたようにこぼした。「毎日ちゃんと連絡くれるし、こっちの都合、ちゃんと聞いてくれるし」「お兄さんとは、だいぶ印象違うね」「似てるところも、あるんだけどね」葵が、そう言ってふっと笑った。その表情が、これまで見たことのない、柔らかいものだった。「でも、大丈夫なの?あの人、なんだかんだ黒瀬グループの御曹司だよ」思わずそう聞くと、葵が肩をすくめた。「最初はあたしもそれ、めちゃくちゃ気にしてた。柚葉たちみたいに、いろいろ大変なんじゃないかって」「うん」「でも朔さん、『家のことは関係ない、俺は俺として君を好きになった』って、真顔で言うんだよね。ちょっとキザなくらい」葵が、照れ隠しのようにコーヒーを一口飲んだ。「柚葉と柊さんを近くで見てきたから、余計に……ちゃんと向き合えば、大丈夫なんだって、思えたのかも」その言葉に、胸の奥が温かくなった。自分たちの関係が、誰か
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。
それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感
ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。







